『「結婚の自由をすべての人に」の意味するところ』弁護士 藤井啓輔

1 「結婚の自由をすべての人に」訴訟について

親密な関係の相手と、結婚という法制度を利用して婚姻関係を構築する自由は、異性カップルにも同性カップルにも等しく保障されている権利です。

しかし、現在、同性カップルは、民法及び戸籍法の規定が同性婚を認める規定を設けていないことによって、婚姻をすることができません。

そこで、2019年2月14日に札幌・東京・名古屋・大阪、同年9月5日に福岡の地方裁判所に、同性婚を認めないという点で憲法に違反した立法の不備(立法不作為と言います)による損害を賠償せよという、訴訟が提起されました。

これが「結婚の自由をすべての人に」訴訟(いわゆる「同性婚訴訟」)で、藤井もこの訴訟の東京弁護団の末席におります。

訴訟の進行状況や国会に同性婚を認める法律を制定するように求める働きかけなどの詳細については、訴訟と連動して社会運動を展開している「一般社団法人Marriage for all Japan」のサイトを御覧頂くとして、今回は、自分が「この訴訟の弁護団員です」というお話をすると頂いた質問やお話のなかで、特に気になった一つに関して、自分の考えをお話しようと思います。

 

2 結婚は誰にとっても素晴らしいもの?

 さて、「自分が特に気になったお話」というのは、「自分は、同性愛者や両性愛者などの人たちが望む相手と結婚できないことは問題だと思う。けれども、自分自身は社会や周囲の人間からかけられる『適齢期になったら結婚しなさい』という圧力が嫌だし、今の婚姻制度にも批判的だ。結婚というものが諸手を挙げて善いものだとは思えない。」という趣旨のお話です。

このお話は、自分がある方を弁護団にお誘いした時にその方から頂いたものですが、末端とはいえ弁護団の一員にこれ程率直な意見を述べるということは、相当な勇気が必要だったと想像します。

そういう訳で、自分からも誠意をもって回答をすると「自分が尊重するリベラル・デモクラシーという考えからすると、『結婚の自由をすべての人に!』という主張をするのに、『結婚は誰もがするべき善いものだ』という前提まで共有する必要はないと思います。」ということになります。

 

3 善い(Good)かは別として、公正(Justice)であれ

 日本もこれに属するとされる、リベラル・デモクラシーという考え方では、「人がいかに生きるべきか、世界の意味、人生の意味は何かといった、各人の生の究極にある価値は多様でありしかも相互に比較不能である」ということが前提になっています。

 この小難しい言い回しに関する細かい議論はさておき、「結婚って善いものですか?」という問いかけに、リベラル・デモクラシーを尊重する人間は、概ねこのように答えるでしょう。

「結婚する人生としない人生、どちらが『善い』人生かについては、多様かつ比較不能な価値の問題なので、『どちらが善い』という『正解』はありませんね」

なんとも木で鼻をくくったような返事で、こんな話を聞くと、「結婚してもしなくてもどっちでもいいなら、どうして同性婚の権利がないことが問題なの?」と思われるかも知れません。

その理由は、異性愛者であれば利用できる「法律婚」という制度が、同性との婚姻を望む人は利用出来ないことが許されるのかという問題は、「公正」の問題だからです。

比較不能な価値観をもった人々がそれでも社会を維持していくには、多様な価値観をもつすべての人に、「基本的権利の平等な保障」という「公正」の原理・原則が妥当していなければなりません。

同性愛者や両性愛者の方々は勿論のこと、異性愛者の方々の中にも結婚というものに関して様々な評価や価値観があると思いますが、「立法の不備によって、結婚を望んでも結婚制度を利用することが出来ない人達がいる」ということは、「何が『善い(Good)』か」という価値観の問題ではなく、「何が公正(Justice)か」という原理・原則の問題なのです。

「結婚の自由をすべてのひとに」訴訟を、「婚姻制度の善さ」ではなく「婚姻制度の公正さ」を問いかける訴訟と位置づけて、訴訟の今後に注目を頂ければ幸いです。

【弁護士 藤井啓輔】