シルクロード

今年4月、東洋文庫ミュージアムに、「シルクロードの旅展」を見に行った。

この展示は、以前この地を旅した時のことを思い起こさせた。

シルクロードは、ユーラシアを東西南北、網の目のように結ぶネットワークで、「西の端はローマ、東の端は奈良」と言われている。日本には、6世紀、シルクロードを通って、仏教とともに中国、朝鮮の進んだ文化や珍しいものが伝わり、そして、ペルシャ人、インド人、ソクド人らが来ていた。

敦煌はシルクロードの要衝であったが、16世紀明王朝は、嘉峪関から西の地域を放棄した。その後この地が脚光を浴びたのは、20世紀初めである。この地に住んでいた道士が、敦煌の南にある莫高窟の壁に塗りこめられていた窟から数万点にのぼる経典や画巻を発見し、イギリスの探検家がその一部を持ち帰って公開したことから、一躍世界が注目することになった。

井上靖は、歴史的事実をふまえたうえで、作家としてこの歴史の謎を推理し、1959年、小説「敦煌」を発表した。この小説は、1988年映画化されて公開された。

1980年4月から翌年3月まで月1回、NHKテレビがドキュメンタリー番組「シルクロード」を放送し、この番組により、多くの人が未知の世界への夢とあこがれをもつこととなった。また、1988年には、「なら・シルクロード博」が大規模に開催され、この年当時の竹下首相が訪中して敦煌莫高窟を訪問した。

私は、このようなシルクロード情報により、未知の土地、歴史や文化に関心を持ち、特に文化については、日本の文化のルーツであることに心ひかれ、この地への旅を思い立った。

1996年8月、私は大学時代の友人3人とともに、旅行社のツァーに参加した。ウルムチ、トルファン、敦煌、西安、北京を訪れる予定であったが、旅の直前、平常雨量の少ないトルファンに100年ぶりという大雨が降って、トルファンにはいけなくなってしまった。

この旅の一番の期待は、やはり世界的に有名な仏教遺跡である敦煌莫高窟であった。砂漠の中に4世紀から14世紀にかけて石窟が掘られ、各窟には塑像があり、それを取り囲む四方の壁や天井に壁画が描かれ、色彩豊かに保存されている。492窟が保護され、そのうち外国人に開放しているのは、約30窟とのことであった。この中のいくつかを見学したが、砂漠の中にこのような大画廊が残されていること、長い年代にわたる芸術作品が揃っていること、色彩が豊かで鮮やかであること、菩薩像の美しさなど、全く驚きと感激であった。

平山郁夫氏は、莫高窟を訪れた時、220窟の中のある壁画を見て、その描法、配色、構成等、かって平山氏が再現模写に携わった法隆寺金堂壁画と全く同じものを見出していた。そして、「日本文化の源流がここにある」と確信したとのことである。私は平山氏の著書「敦煌 歴史の旅」で、このことを読んでいたので、その壁画を懐中電灯で食い入るように何度も見たが、暗くてよくわからなかった。誠に残念なことであった。平山氏は莫高窟の修復・保存活動に取り組み、政財界にも働きかけて大きな貢献をされた。

私はこの旅で、日本とは全く異なる西域の風土、歴史、文化、特に日本文化の源流である素晴らしい文化に、ほんの表面だけでも自分の五感で直接触れることができ、非常に楽しい旅となった。

1990年代以降、中国は改革開放政策のもと、経済が発展し、2010年にはGDPで、日本を抜いて世界第2位となった。2000年以降、反日暴動や尖閣諸島の問題などが起こり、日本では中国に親しみを感じない人が増えた。さらには、ウイグル族に対する人権問題、香港に対する対応や「一帯一路」政策、南沙諸島の問題など、このような中国を見てきた若い世代は、中国に対してロマンを感じることができないのが現状である。

私たちの世代は、日中国交回復以降約30年間良好な日中関係のもとで、中国を見てきた。私は1991年から2009年までの間に、自分なりにいろいろな目的をもって合計8回(返還直前の香港・マカオ1回を含む)中国を訪れた。中国には、「一衣帯水」という言葉があり、日本と中国は、「一衣帯水」の隣国(帯のような細い海を隔てた隣国)である。私のふるさと奈良の正倉院展には、シルクロードからもたらされた物が展示される。現在の中国の「力の政策」には憂慮するが、古代からかかわりの深い隣国として、両国が対話と協力により、良好な関係を持ち続けられることを願っている。

シルクロードや敦煌に対する夢やロマンは、私の中では変わることはない。

弁護士 児 嶋 初 子