「世界は五反田から始まった」  弁護士児嶋初子       

2022年度大佛次郎賞受賞作品、星野博美氏作「世界は五反田から始まった」を読んだ。この作品を読むきっかけになったのは、私の高校の後輩で精神科医の方が、2020年度に、「金閣を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫」という作品で,この賞を受賞されたことから、この賞の受賞作品に関心を持つこととなった。

作者の出身地で現在の居住地である五反田は、作者にとって世界の中心である。祖父の代から始まり1997年まで、作者の家族は五反田で星野製作所という町工場を営んでいた。祖父が書き残した記録をもとに、家族の歴史をたどっていくと、日本の近代史の中での五反田の歴史、その中で家族がどのように生活していたかが具体的にわかってくる。

1915年ころ第一次世界大戦による好況、工業化ブームにより、五反田地域に大小数多くの工場が建った。作者の祖父は外房の漁師町から五反田の町工場の丁稚として上京、その後工場で働いて貯めた資金で、1927年ころには独立して町工場を営むこととなった。星野製作所として、真鍮製のネジを扱う作業をしていたが、1937年日中戦争が始まり、翌年国家総動員法が施行されると、軍需品を製造する親会社の下請けとして軍需部品を造ることとなった。

大工場を頂点とし、裾野に町工場が広がるピラミッド型の工業形態は生産ラインが町に広がった状態と言え、親工場が軍需品を扱えば町工場も自動的にその末端部品を造ることになる。大工場の周囲に町工場が乱立する東京の工業地帯は、日中戦争を機に「地域全体がゆるやかな軍需工場」のような様相を呈するようになっていた。

作者は、1986年に交換留学のため香港に行き、その後中国や台湾を訪ずれ、日本の侵略戦争による多くの被害者を目の当たりにして、加害者としての戦争責任を強く意識して来たが、また、軍需産業の末端に加わっていた事実も判明し、作者自身の立ち位置も定まったと述べている。

五反田地域の中の武蔵小山商店街は満州へ開拓団を送った。平和産業従事者らが武蔵小山商店街商業組合を結成していたが、太平洋戦争突入で解散を余儀なくされ、その打開策として急浮上したのが満州への転業開拓移住だった。組織としての統制が非常事態には転業開拓の空気を後押しした。総勢1039名が転業入植したが、関係者の話では、生存者は1割に満たず、帰還後の居住地はほとんどが東京以外である。

五反田地域は、1945年5月24日の城南大空襲で焼け野原となった。この空襲では単位面積当たりで3月10日の大空襲の2倍に当たる焼夷弾が投下されたが、犠牲者の数は少なくて済んだ。それは3月10日の大空襲から学び、「避難禁止」、「消火義務」に拘束されず逃げた人が多かったことが大きな理由といわれている。

作者は、「(戦争で)みんながひどい目にあった、という人が多いが、生き残った人がどんな判断をしたのか、ほとんど伝えられていない、どんな状況になっても生き延びる方法を考えたい」と述べ、祖父の記録や他の証言などから庶民の知恵を見出している。

その1つが早期の疎開である。東京が最初に空襲を受けたのは、1942年4月18日で、その2年半後の1944年11月から本格的な空襲が始まった。祖父の記録によると。最初の空襲のすぐ後から家族を疎開させることを考え、敵機の襲来ルートや食料状況などを考え、知人に紹介された越谷に家族を疎開させた。自分一人は、防空壕を掘って避難に備え、工場を守っていたが、このように家族を早く疎開させたことで、空襲を免れることができた。

また、祖父は焼け野原になった後のことについても、幼少期の作者に、「ここが焼け野原になったら、すぐに戻ってきて、敷地の周りに杭を打ち、「ほしの」って書くんだ」「そうしねえと、どさくさに紛れてひと様の土地を分捕る野郎がいるからな」と幾度となく話して聞かせた。作者はその時はわからなかったが、土地の乗っ取りの危険は現実の話であり、祖父は生活の知恵を孫に教えていた。

作者は、自分の本拠地である五反田で、家族の歴史を見ていく中で、地域の歴史を掘り下げ、日本の歩んできた歴史、そしてそれが世界へとつながっていることを見てきた。

また、作者は、五反田の歴史を述べる中で、日本で初めてという重要な歴史があることを述べる。この地域には低賃金労働者が多く、小林多喜二が無産者階級の覚醒を目指してオルグに入り、その体験をもとに書いた「党生活者」の舞台となる工場の跡地、日本で初めてできた無産者階級の託児所にして宮本百合子の「乳房」の舞台となった無産者託児所跡、同じく日本で初めてできた無産者階級のための診療所跡がある。五反田にこのような歴史があるにもかかわらず、無産者闘争にまつわる記憶を呼び覚まさせるものが何一つ残されていないことを作者は残念に思う。

五反田から、日本が見え、世界へと広がった。町工場を営む家族の具体的な生活の歴史からどんどん世界が広がり、読んでいて大変興味深い作品であった。